ゲット・オン・ザ・バス

ゲット・オン・ザ・バスは、1996年のアメリカ映画で、監督 スパイク・リー、脚本 レジー・ロック・バイスウッド
1995年のワシントンで黒人男性による100万人大行進が実施されることとなった。ロサンゼルスからその行進に参加するためのバスに乗車した中に初老の"オヤジ"や息子を手錠でつないで歩く父親、ゲイのカップル、映画監督志望の青年などがいた。三日間にわたるワシントンへの旅の中で、彼らはいろいろなことを議論する。
スパイク・リーが95年のワシントン大行進をモチーフに現代の黒人社会の問題を描いた佳作なのだ。
三日間をバスの中で過ごす10人あまりの人々だが、黒人運動の一大イベントとして企画された100万人大行進に参加するという共通の目的を持っていながら、彼らとは簡単には打ち解けない変人だ。UCLAのパーカーを着た映画監督を志望している青年がカメラを向けることは、その人々を不快にさせることも多いのだが、彼の行動は人々を少し近づけることになる。しかし、ハリウッド・スターを気取っている売れない俳優はゲイのふたりにあからさまな差別意識を露にし、隣に座った男の母親が白人だからといって彼と距離を置く。彼のこの行動が黒人社会内の差別/逆差別の構造をあからさまに示してしまっいる。黒人社会とひとくくりにされるけれど、それは決して一枚岩ではなく、100万人大行進というのはそのばらばらな黒人社会を何とかまとめようというしい行動なのだということがわかる。60年代に行われたという100万人大行進は公民権の運動の一環として黒人が団結し、自分達の権利を白人社会に対して訴えるイベントだったのだ。95年の大行進は黒人社会内部に向けて団結を訴えるイベントだったのだ。バスに乗った人々はそ
の行進にたどり着く前のバスの中でその団結に少しずつ近づく。特に、旅の途中のメンフィスで拾った黒人の自動車ディーラー"ニガー"と呼ぶ共和党員への反感からその団結は強まっていく。 この作品はそんな地味なストーリーなのだ、非常に小さな物語を積み重ねることで、麻薬も銃もセックスも登場させることなく黒人社会を描いている。犯罪をにおわせるのは父親が息子をつないでいる手錠だけだが、この父親と息子の関係も黒人社会にひとつの側面を非常にうまく表現した小さなストーリーになっている。敬虔なイスラム教徒の格好をした男、白人との混血の男、アフリカの太鼓を持ち込んだ初老のオヤジ、彼らの背景や関係が明らかになっていく中で、小さなストーリーが次々と生まれ、一つ一つが小さな輝きを放つ。
スパイク・リーは地味な作品だけれど、会話だけで十分に楽しませてくれる作品だと思う。スパイク・リーは黒人監督のリーダーとしてやはり犯罪やドラッグといった黒人社会の暗部を描いてきたのだが、この作品を撮っても面白いこの人は結構繊細な人で、どこかウディ・アレンと重なるところがあるようにも思える。彼が黒人のために何かを訴える映画を撮らなくてもよい世の中が来たなら、ウディ・アレンのような作品を撮るのではないだろうか。作品にはユダヤ人のバス運転手も登場し、黒人と差別されることについて会話を交わすが、同時に白人として黒人の視線に恐怖を感じる。ユダヤ人のウディ・アレンと黒人であるスパイク・リー、典型的なニューヨーカーであるウディ・アレンと生粋のLAっ子のスパイク・リー、このふたりを比較してみるというのも面白い。