ヒトラーの贋札

ヒトラーの贋札
監督 ステファン・ルツォヴィツキー
原作 アドルフ・ブルガー
キャスト カール・マルコヴィクス、アウグスト・ディール、デーvヒト・シュトリーゾフ、マリー・ボイマー、ドロレス・チャップリン

第2次大戦終結直後、大金を持ってモンテカルロにやってきたサリーは戦争中のことを思い出していた。ユダヤ人で天才的な贋札師だったのだが、ナチスにつかまってしまい、収容所に送られてしまうのだが、ナチスが贋札によってイギリス経済に打撃を与えようという「ベルンハルト作戦」が開始されてしまうとそのために借り出されてしまうのだ。実際にベルンハルト作戦に関わっいたユダヤ人の生存者であるアドルフ・ブルガーの自伝を映画にしたとてもスリリングな戦争もののドラマ映画なのだ。
ナチスが贋札を作ってしまうことによって戦争の状況を好転させようとしたのだが、収容所に入れられてしまったユダヤ人たちがそれに協力させられてしまうのだ。ところが彼らにはやわらかいベッドや充分な食事といった特別な待遇が与えられてしまう。贋札を作ることはナチスに対して利益を与えることになるし、それは結果的につまり戦争が長引かせてしまい、ナチスが勝ってしまうことを意味することになるのだ。ところが、サボタージュというのは自らの死に直結してしまうのだ。この展開は非常にうまい舞台装置ということなるのだ。ナチスというのは本当にとてもひどいことをしたんだけれども、本当に人間がいやになるくらい人を操るのがうまいというかずるがしこいのだ。心理的にどのように恐怖を利用すれば人を操ることができるのか、それをいやというほど知り尽くしているというのだからだ。
どの位ひどいかというと、たとえば、彼らがすぐ隣にいる普通のユダヤ人収容者と完全に隔離させられ、彼らの様子が見えないというのことは非常に重要なことなのだ。実際音は聞こえのだけれども姿は見えないというものだ。彼らの苦難は想像できるのだけれども、実際には目には触れないのだ。そのために努力すれば彼らのことを忘れることはできるのだ。だから意に反して贋札作りができるようになれるのだ。これは心理的に非常に重要な点なのだ。人は実際に見えないものに対してはそれほど感情を揺さぶられないでいられるのだ。たとへ自分の行為が他人の死につながっているとわかっているような場合でも、それが直接自分の目に触れなければ、文字通り目をつぶることはそれほど難しいことではないのだ。ところが、その死が目の前にいる人や個人的に知っている人の身に降りかかってくるような場合となると話は全然変わってきてしまうのだ。だから自分の子供の旅券を見つけてしまった男は死ぬほど苦しんでしまい、ヘルツォークはサボタージュを続ければそこにいる仲間を殺すと脅すしてしまうのだ。
ところがだ、ブルガーだけは目に見えぬ同胞のために自分の命を賭すこともいとわないという考え方だ。彼の存在が他の仲間に、目に見えない同胞がいることを思い出させようとするのだ、そこにジレンマを生じさせてしまうのだから、彼の存在はこの物語においては非常に重要な役割なのだ。ところが、これがブルガーの原作というところが眉唾でもあるのだが。ある意味ではないのだがナチスの協力者であったような彼らは戦後になってしまうと自分の保身を必死になってしなくてはならなかったはずないのだが。
ブルガーもまたそうであったようだが、彼は自分自身の正当化のためには、このような正当化のための自伝を書いたのではないかと思ってしまう次第なのだ。本当に死の恐怖に打ち勝ってまでまったく何週間もサボタージュを続けていたとはとてもとても思えないのだ。できたところがせいぜい数日というところだろうと思わざるを得ない。もちろん原作はもっと真摯に事実に基づいて書かれているのだろうとは思うのだけれども。映画として面白く盛り上げるために書き換えたのだろうと好意的に捉えるのだが、それはいったい果たしてどうして作品にとってプラスになっただったろうかと考えてしまいそうだ? できることなら緊迫したたった数日間だけを描いたほうが面白かったのではないかなどとも思ってしまうほどなのだ。
彼の行動の説得力のなさはともかくといたしまして。この作品は全体的に現実感を欠いていると思わざるを得ないのだ。もちろん、ハッキリいって強制収容所の悲劇を描いたほかのおおくの作品に比べても悲惨な境遇には無いということもあるのということなのだが、それにしましても全体的にきれい過ぎやしないかと思うないのだが。そのきれいさはどうもなんとなく作り物じみていてリアルに感じられないということなのかもしれません。そもそも、なんとなく最初のシーンで浜辺に座るサリーの背後にモンテカルロが見えるのだが、そこを走っている車がどう見ても今の車に見えてしまうところから興ざめしてしまうのだけれどもどうですか。なんとなく過去を舞台にしたお手軽な映画というのは完全に作り上げられた世界であり、そこにほんとにちょっとした小さなほころびでも見られるのであれば、そこに描かれている世界全体が音もなく崩れ落ちてしまうのだ。そうならないようにこれまでさまざまな技術が取り入れられ磨かれてきたようなはずなのだが、この作品にはその技術が生かされていないと思わざるを得ないのだ。ものを古く見せるためのいわゆる「汚し」をしっかり
とやればよかったのではないだろか、今ではCGを使うという方法もあるし、いくら物語の設定が面白いといっても、面白い映画の基本である映像の部分でほころびが出てしまっては作品の面白さは半減してしまうだ。