しゃべれども しゃべれども

しゃべれども しゃべれども
監督 平山秀幸、原作 佐藤多佳子
キャスト 国分太一、香里奈、森永悠希、松重豊、八千草薫、伊東四朗
落語家今昔亭三つ葉師匠の古典にこだわる二つ目の話し方講座についてゆき、そこで途中で席を立った美女十河五月を呼び止めるてしまうのだ。お茶を教える祖母の弟子の一人に甥に落語を教えてくれと頼まれてしまう三つ葉はその少年の村林と十河、さらに不意にやってきた元プロ野球選手の湯河原の3人を生徒に落語の教室を始めるのだが。佐藤多佳子の同名小説を映画化したものだ。
情緒が残っている下町を舞台にしたとてもほっとするようなヒューマンタッチのドラマなのだ。
落語は最近再びブームとなったり、レトロな昭和ブームだったりするのであるが、こういう類いの映画はヒットしてもいいと思いたいのだがいかんせんあまりにも地味なのかもしれません。お笑いブームで落語がモチーフとなったのかもしれませんが、落語界について何かを描いたり、落語の噺がモチーフになっているというわけではないので、二つ目の噺家が主人公ということで、レトロな昭和の情緒が残る下町が舞台となっているのだが、それほどノスタルジーを掻き立てるような風景が次々と出てくるわけではないのだ。作品の舞台である落語や下町の情景が懐かしいものとしてではなく、いわゆる"現代"から少し取り残されてしまったものの象徴として現れているからだろうという見方もあるのだが。ある意味"現代"の東京といえば、なんといってもやっはり渋谷や青山や六本木のような都会的な雰囲気なわけなのだが、そんな東京の中にもそこからは取り残されてしまった所があるのだし、人々がこりずに暮らしているのだ。この作品はそんな新しいものに馴染めない人たちの日常や悩みを描いたストーリーになっているのだ。ですから、いわゆる都会派といわれている現代の
日常とはちょっと違う世界が描かれているようなので、内容はまったく変わらないといいきっていいと思わざるを得ない。三つ葉の悩みは落語家として一皮も剥けないという悩んでもまったく無駄な悩みなのだが、それは落語家に限らずどのような人間でも持っているらしい悩みだ。この作品は誰でも共感できる作品になりえたと思えることもできなくはないと思う。実際はそれぞれの人物の設定がいまひとつなので、なんだかぼやんとしたハッキリしない印象になってしまったようなのだ。主人公の三つ葉はもしかしたらおそらくいい人ようなんだと思いたいけれど、どうも下町っ子らしいがさつさとシャイな部分を併せ持ったという人物像なのだろうけれど、その感じがいまひとつ描ききれていないように思わざるを得ない、いきなりがさつになったり、いきなり繊細になったりする男に見えてしまうのは見方の問題かもしれませんが、香里奈が演じる十河もただただ無愛想な人間に見えてしまうだけなのだ。この映画は人物像のあいまいさを映像で補おうとしているらしいのだが、発表会にやってきた人間が帰ったということを靴の少ない玄関を映しただけで表現して見せたり、なかな
かいいショットもあるけれど、映像に語らせすぎるスローモーションやクロースアップも出てきてしまう。このあたりがこの作品がどうもまとまりのないばらばらな印象与えてしまっいる要因になっているのだろうと思わざるを得ないのだ。村林少年を演じた森永悠希はかなりいい感じの味を出していた。
関西人らしいお調子者なのだが、繊細なところもありで、かなり気を使う子でもあるという村林をとてもうまく演じて、他の大人に引けをとらないどころかくってしまうくらいの演技を見せているという見方もある。かといって生意気な餓鬼というわけではない子供らしいからぬかわいさもあって、作品で一番の存在感があったのではないかと思っている。
この映画の2時間弱という時間に4人の主要な登場人物の4つのエピソードを詰め込んでしまったということもまとまりがかけてしまったのかもしれない。湯河原のエピソードは語られず、添え物のようだし、ラブストーリーのはずなのに、その過程の感情的機微の部分が描かれていない。
これは素材を詰め込みすぎてしまって、素材が互いのよさをぶち壊してしまったおいしくなかったフランス料理のようなものだ。結果的にはぼんやりした印象で、つまらなくはないのだがほとんど印象には残らないつまらないものになってしまっている。