ヴィトゲンシュタイン

ヴィトゲンシュタインは、1993年のイギリス映画で=日本,75分

監督 デレク・ジャーマン
キャスト クランシー・チャセー、カール・ジョンソン、マイケル・ガフ、ティルダ・スウィントン

ヴィトゲンシュタインは、天才的な哲学者として知られているオーストリアに生まれで、ケンブリッジ大学で学んだ彼の人生はどのようなものだったのか。鬼才デレク・ジャーマンがヴィトゲンシュタインの一生を描いた伝記ものの映画なのだ。黒い背景の前で演じる演劇のようなスタイルで、緑の火星人を登場させるなどして幻想的な演出もくわえたりしてデレク・ジャーマンらしい工夫を凝した作品になっているのだが、ヴィトゲンシュタインの思想をしっかりと伝えようという一生懸命な意欲も感じられように、比較的だが見やすい作品となっていると思うのだ。
ヴィトゲンシュタインという天才哲学者をデレク・ジャーマンという鬼才が凝って映像にしている。難解なヴィトゲンシュタインの思想を、難解なデレク・ジャーマンの映像を解釈するのだから難解なのは当然なのだ。このような難解な映画は凡人には到底理解出来ないのが当たり前だが難解で頭がパニックになるであろうことは想像に難くない。そう思ってついつい敬遠したのだけれど、もしかしたら難解さと難解さが出会ったとき、そこにまったく違うわかりやすさが生まれることもあるのかもしれないと浅はかな期待をして難解映画を見てしまったのが運のつきだったのだ。
序盤からはっきり言ってまったくわけがわからないのが当たり前だが。ヴィトゲンシュタインの少年時代について語られ、片手のピアニストの兄や画家の姉が登場して、少年ヴィトゲンシュタインの苦悩が語られ、話し相手や哲学問答の相手として緑色の火星人が登場するところがなんともかわいらしい。映像はずっと真っ暗な舞台の上に登場人物だけがいて、そこにスポットライトが当たっているようなもので、場面設定を説明するようなものも一切ないのだから難解なのだ。ヴィトゲンシュタイン少年のひとり語りに至ってはまったく超難解で、そもそも何を話題にしているのかすらまったくわからないのだ。中盤に差し掛かり、ヴィトゲンシュタインとバートランド・ラッセルとメイナード・ケインズ(あの有名な経済学者ケインズ、ケンブリッジの同僚)を中心に展開されるようになると、だんだん面白くなくなっていって、特にヴィトゲンシュタインのセミナーで彼が自分の思想を説明するところで、観客にも彼の考え方が多少ではあるが伝わってきたような気がするだけだった。
言葉やコミュニケーションの問題はヴィトゲンシュタイン自身の存在の自体までもかかわってくるようなのだが、映画で語られるのは果てしなく哲学の問題ではないのだ。哲学的な素養が語られているように感じているのは、哲学についてまったく知識がないためで理解不能に陥っているのだ。この映画がいっていることは、言葉を扱うこと自体が哲学であり、人と何らかのコミュニケーションを取っていることが哲学であるということ気がつかなければいけない。それでなければ、この映画を観たことにはならないのだ。
哲学というものはごく当たり前のものであって、生きていることそのものが哲学であり、そうこの文章を読んでいること自体が哲学なんだよ。
生きることに対して意識するような人であればこの映画を見る価値はあるのだ。
デカルトとかフロイトとかいろいろな名前が出てきて、それを知らないと作品が理解できないようにも思えるが、結局のところではそれは関係ないのだ。